センキョ割学生実施委員会メンバーが考える「センキョ割」

2012年から10年以上、全国多くの企業さまや店舗事業者さま、商店街の皆さま、青年会議所さまや学生団体さま、市民団体の皆さま、そして学生の皆さま等々とともにボランティアベースで民間同士で紡ぎ合い、支え合ってきたセンキョ割。


 この活動の歴史、先輩たちの多様な尽力などを振り返って、センキョ割の社会的意義について、一人のボランティア学生が考えた文書を掲載します。エッセイなのか、ステイトメントなのかよくわかりませんが、軽い読み物として、センキョ割を理解する上で手助けになったら幸いです。


『ステートメント、もしくはエッセイ、あるいはそれに類する何か』


「最近は商店街が「投票に行ったらコーヒープレゼント!」とか謎のサービスをしているし。」


これは、古市憲寿著『絶望の国の幸福な若者たち』の一節である。こうやって冷静に見ると、確かに「謎のサービス」かもしれない。投票に行ったら、商品、サービスが安くなる。コーヒーが貰える。よくわからない。投票したところでそのお店に利益があるわけでもないのに。しかしそれでも、その「謎のサービス」は、長く、しぶとく持続しているのである。「センキョ割」として。


ではその、「謎のサービス」の一体何が、どんな価値、あるいは魅力がここまで活動を持続させ、さらに拡大し続けさせたのだろうか。それは、「政治の手前にある語り」の価値なのではないか、と考える。


センキョ割に対しての、よくある批判として、「何も考えず投票する人を増やすんじゃない」か、「選挙はモノに釣られてやるようなものではない」、といったものがある。意外に思われるかもしれないが、それはとても真っ当な批判だ、と思う。確かに、モノに釣られて選挙に行くべきではない。それはよくわからずに投票する人を増やしそうだし、何より選挙に対する冒涜のように思える。


では、それならなぜ、センキョ割をやるのか。それは、今選挙に行かない人たちが、たとえモノに釣られただけだとしても、選挙に行く、ということを10年続けた場合、その積み重ねは当人にとってプラスになるだろう、と考えているからだ。


10年間一度も選挙に行かなかった人と、モノに釣られてでも10年間選挙に行った人では、そこには間違いなく差があるはずだ。選挙に行く、という行為によって、その投票した当人は、自分の所属する地域あるいは国家に対しての認識を、再帰的な形で変化させるだろう。毎日、全員が深く政治を考える社会はあり得ないだろうかもしれないが、日常で精一杯の中でも、そういった機会を作ることで何か変わることがあるのではないか。選挙に行く習慣を得ている人でも、全員が十分な知識を持っているわけではない。むしろ選挙に行く、というトライ・アンド・エラーの中で段々と理解を深めていく、という側面の方が強いのではないか。それならば、そのループに参加すること自体にも、価値はあるのではないか。


しかし、本当に重要なのはそれだけではない。ただ、選挙に行く、行かない、といったことだけがセンキョ割の価値ではない。センキョ割にとって最も意義があること、それは、「センキョ割」という言葉そのものなのではないか、と考える。そのセンキョ割という語り–イデオロギーや政治的な問題の手前にある行為、その語りの手段を持つ、ということが価値なのではないだろうか。政治の手前にある社会的行為として、その生々しいむき出しの政治を包み込むクッションとして、「センキョ割」という言葉が作用するのではないか。


前提としておきたいのは、私たちは、ある種の諦めから出発している、ということだ。『表徴の帝国』でロラン・バルトは、ヨーロッパは記号を意味で満たそうとするのに対し、日本は記号の意味の欠如がある事を指摘した。これはそのまま、政治や社会問題に対する日本人の態度に言えるのではないか。つまり日本で、具体的なポリティカルな問題を扱うことは難しいのではないか、ということだ。


一般的に言われるように、日本人は政治の話をする習慣がない。安保闘争の際も、公で政治について語る、ということは一般にまで普及したわけではなかった。私たちの日常生活の中では、やはり政治の具体的な問題について語ることは難しい。もちろん、そういったことを語る必要はあるし、そういったことを語れる社会の方が成熟している、と言えるだろう。しかし、だからといって無理に語らせようとすると、それはよりそういった問題に対して語りうる、あるいは語りたいと思う人と、そうでない人の分断を深めるだけなのではないだろうか。


私たちは政治について真正面から語る、ということを諦めている。しかし、だからといって何もしないわけではない。ポリティカルな、ともするとお互いの対立を生みかねない問題を直接話せないのなら、私たちはどのように社会と向き合うべきか。それに対する私たちの一つの答えが、この活動である。社会、あるいは政治について、イデオロギーを含まない形で何か語りうることができないか。分断を乗り越えるその一つの語りの形として、「センキョ割」を使えないだろうか。


建築家の青木淳は、『原っぱと遊園地—-建築にとってその場の質とは何か』で、建築を遊園地型と原っぱ型の二つに分ける。遊園地は、見ただけでどのように遊ぶものかがわかる遊具で構成される一方、原っぱは、「そこで行われることで空間の中身がつくられていく空間」である。自分達で何をして遊ぶのかを決めることのできる余白のある空間であり、その行為の関係性そのものがその場でデザインされる、という空間である。


私たちが目指しているのは、この「原っぱ」に近い。センキョ割には、実はさまざまな形がある。もちろん普通に利用することも可能だし、地元の個人商店から、大企業、あるいは地域の商店街のイベント、お祭り、近年はさまざまな高校や大学の授業の一環、部活動や生徒会、文化祭としての取り組みもある。センキョ割には余白がある、様々な人たちが、様々なあり方で、様々な方法で関われる「あそび」があるのだ。


借りているシェアオフィスの他の同居人が、センキョ割とは全く関係のない友人から「選挙一緒に行って、帰りセンキョ割使ってご飯食べよう」と誘われたらしい。先日、鹿児島の高校一年生がセンキョ割をやりたい、と言って一人でさまざまなお店を周り、複数のセンキョ割の協力店舗を募ったりしている。twitterで、インフルエンサーが「選挙デート」としてセンキョ割を使ったことを報告してくれたりする。毎年参加してくれている個人商店のお店が、全くセンキョ割を使ってくるお客さんがいなかった、と言ってどうやったら人が来てくれるか一緒に考えてくれる…そういった語り、あるいは自発的な行為を引き出す、イデオロギーや政治性の手前で、しなやかに政治、あるいは社会について語る、そこに参加する言語を獲得する。そこにセンキョ割の本当の価値があるのではないのだろうか。


繰り返すが、センキョ割のやっていることは批判があって然るべきだと思うし、それは「謎のサービス」である。そもそも見返りもないのに選挙に行ったからといって、何かサービスをする、ということがよくわからない。なぜ、わざわざ引き受けたり、協力したり、広めたりするのだろう。お客だって来るお店もあれば、来ないお店もある。前回は一人も来なかったよ、と言ってそのまま参加してくれる店舗もある。トラブルがたくさんあって大変だったんだよ、と嫌味を言いながらも参加してくれる店舗もある。なぜ、と問うたら、それはきっと社会のために、というようなものでもないかもしれない。それでも協力してくれるのは、学生が頑張っているから、かもしれないし、テレビでセンキョ割についてやっているのを見たから、かもしれない。それとも他に理由があるからかもしれない。


全然お客さんが来なくとも、とりあえず参加する。あるいはトラブルがあって嫌な顔をされても、それでもなんだかんだ協力してくれる。それはなぜだろうか。もちろん、大きな共感を示してくれるところや、実際に効果があったところもあるだろう。自発的に行動し始めた人もいるし、学校でなんとなくやらされている人もいるだろう。本当に意味があるかどうかもわからないが、めんどくさいが、明確な理由があるわけでもないが、とりあえずやる、巻き込む、引き受ける。この幅の広さこそ、私たちの目指す「文化」としてのセンキョ割、である。


センキョ割の問題意識のひとつは、情報化社会によって進行した社会の分断にある。その分断を解決とまではいかないまでも、いかにして多少緩和することができるか。日本人がかたく構えてしまう政治という語り、その手前の空間で、いかに新しいふるまいを構築することができるか。投票率にどれぐらい影響したか、といったわかりやすい数字ではなく、そういったプロセスの中にセンキョ割の価値や、新しさがあるのだと思う。


センキョ割でやっていることは、わかりやすい数字として現れることではない。計量できる範囲にあるものではなく、それは単純な「デザイン」のように、一方向的に何かの行動を誘発させるようなものでもないように思う。もっと複雑で、緩やかな行為。しかしだからこそ、その緩やかさの中に、少しでも社会が変化していく種のようなものがあるのではないか、と思う。


2023年1月 センキョ割学生実施委員会 慶應義塾大学環境情報学部 永田一樹